山本薩夫の世界 >> プロフィール >> 山本薩夫監督プロフィール

山本薩夫監督プロフィール

山本薩夫監督 プロフィール

年(年齢)

1910 7/15 (0) 鹿児島市生まれ。父・源之助(鹿児島県庁農林課)、母・のぶ 三男(末っ子)長兄・狷吉はのち新潟大学教授、次兄・勝巳は建築士、俳優の山本学、圭、亘の父。姉・満寿子がいる。長兄の友人・重松鶴之助(画家)、中村草田男(俳人)とも交流

1917 (7) 松山第一尋常小学校入学

1923 (13) 松山中学(「坊ちゃん」の舞台)入学。先輩に伊丹万作(薩夫の絵の先生)、伊藤大輔(松竹の入社をすすめる)

1929 (18)  第一早稲田高等学院入学。在学中は演劇に熱中、大学記念祭にドイツ語の芝居を上演

1932 (21) 早稲田大学文学部(ドイツ文学専攻)入学。演劇部で谷口千吉(映画監督)、森繁久弥(俳優)と活動

1933 (22) アート・オリンピヤード事件で検挙、退学(プロキノ作品『スポーツ』に記録されている)

1933 (22) 4月松竹蒲田撮影所助監督受験、8月入社、成瀬巳喜男組へ(「双眸」でサードとしてつく。セカンドが渋谷実)

1934 (24)  成瀬巳喜男にP・C・Lへ移籍、成瀬の専属助監督へ(「限りなき舗道」「乙女ごゝろ三人姉妹」「妻よ薔薇のように」などにつく)

1935 (25) 4月8日小林よ志江と結婚

1937 (27) 『お嬢さん』(P.C.L)で監督昇進

1938 (28) 長男・駿(撮影監督)誕生

1940 (30) 長女・泉誕生

1941 (31)  次男・洋(映画プロデューサー)誕生

1943 (33)  千葉県佐倉連隊に二等兵として応召(原節子の見送り)。古参一等兵に演劇仲間・宇野重吉がいた。のちに『真空地帯』の撮影場所に

---------------------------------------------------

1946 (36) 済南第12軍司令部報道部付映画班員として敗戦をむかえる。甘粕正彦から招待受ける。

1946 (36)  国府軍に抑留、6月に復員

1947 (37)  東宝復帰第一作・憲法制定記念映画『戦争と平和』を亀井文夫と共同監督

1947 (37) 日本共産党入党

1948 (38) 東宝争議で退社(団交の解決条件で、伊藤武郎委員長・亀井文夫・山形雄策・楠田清・宮森繁ら20人の組合幹部のひとりとして退職)
 

1950 (40) 東宝争議解決金1500万円で製作された『暴力の街』を監督。新星映画、今井正・亀井文夫・伊藤武郎らと設立。第一作『どっこい生きている』(今井正監督)、2作『箱根風雲録』3作『真空地帯』(山本作品)『太陽のない街』(独立映画社配給)、製作費かかりすぎ興業も不調で、新星映画頓挫。レッドパージの勧告(大手でも監督の道、絶たれる)

1955 (45)  山本プロダクション設立。第一作『浮草日記』。以後同プロをベースに企業五社で数々の名作を監督

1959 (49)  農村婦人の10円カンパで製作された『荷車の歌』を監督。日教組『人間の壁』、大阪総評『武器なき斗い』、松川を守る会『松川事件』と続く

1962 (52)  『忍びの者』(大映)を監督。大ヒットで忍者ブームに。

1965 (55) 傑作喜劇『にっぽん泥棒物語』(東映)を監督。「忍びの者』ヒットの「ご褒美」で『証人の椅子』(山本プロ)を監督

1966 (56)  『白い巨塔』(大映)監督。キネ旬1位、毎日コンクール作品賞など、各賞を総なめ

1967 (57) 『座頭市牢破り』監督で、勝新太郎と提携(勝プロ)

1969 (59)  「10万人がプロデューサー」の自主製作自主上映作品『ドレイ工場』の総監督

1970 (60) オールスター巨編『戦争と人間』(日活)に着手(3部作)

1974 (64)  『華麗なる一族』(芸苑社)を監督し、25年ぶりに東宝の門をくぐる。山崎豊子『不毛地帯』(1976芸苑社)の監督も熱望・実現する

1979 (69) 吉永小百合まぼろしの企画『あゝ野麦峠』を監督、映画化実現

1983 (73)   8月11日午前5時45分、渋谷区千駄ヶ谷の代々木病院で死去。膵臓癌。